大きな家のボロキッチン
別居だったはずなのに! ある日突然の「壁紙選んでね」という義母の言葉に呆然、あれよあれよという間に同居のための改装終了。 卯年生まれの私も義母が雑事から解放された年齢になりました。うさぎが茨の道を脱出できる日はいつ?
三月三日、ひな祭りの日です。
私たち夫婦には息子しかいませんから、直接的にはスルーしてもいい日なんですが、なんせ小姑が長らく同居していましたから、言わずもがなですね。
ひな祭りのゴタゴタは、何度かここにも書いてきました。
当然のことながら、ホームパーティー病も発生していて、毎年大変でした。
でも、あの年の三月三日だけは。
絶望感と困惑と怒りでいっぱいだったあの年の三月三日。
長男の卒業式は三月三日でした。
一日が週末だったので例年より二日遅れの卒業式でした。
受験生だというのに予備校や塾へ行くお金もなく、学校と自宅学習のみで大学受験に臨みました。
高三ともなれば模試の連続ですが、たびたび義家族のホームパーティ病に邪魔をされ、センター試験の年には正月だと言ってどんちゃん騒ぎを繰り返されました。
あの時のバカ笑いの声は、今思い出してもはらわたが煮えくり返ります。
お金があればホテルにでも避難させてやれましたが、そんなお金あるわけないです。
普通は、大事な大きな試験なのですから、普段通りの生活の中で気を使わせない気遣いをするでしょうに。
浪人したことを義家族のせいにするつもりはありません。
実力が足りなかっただけです。でも、受験生に対する気遣いがこれっぽっちも感じられなかったことに恨みつらみはありました。
プレッシャーになるので本人には言いませんでしたが、見返してやれ!そう思って応援してました。
高三になっても予備校どころか店の手伝いをしていた長男はせっせと貯金もしていました。長男が高校生の頃は少ないながらもバイト代を渡せることができていましたから。最低賃金なんか関係ないくらいの低賃金ですが。
その貯金を全部はたいて予備校に通うことになりました。
浪人生の三分の一は成功し、三分の一は現役の頃と変わらず、三分の一は下がってしまうと言われています。
悔しさだけが糧のような苦しい一年が続きました。
小姑らには、マザオが出入り禁止を言い渡しました。
義母には、皆を呼び集めるな、余分な口を挟むなと宣言しました。
あの一年を書いてみようと思います。

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