大きな家のボロキッチン
別居だったはずなのに! ある日突然の「壁紙選んでね」という義母の言葉に呆然、あれよあれよという間に同居のための改装終了。 卯年生まれの私も義母が雑事から解放された年齢になりました。うさぎが茨の道を脱出できる日はいつ?
こんな田舎でもめっきり鯉のぼりを見かけなくなりました。
お雛様もコンパクトなタイプが好まれるようになったと聞きました。
うちには小姑らの七段飾りのお雛様がまだ和室の押入れに踏ん反り返っているはずです。
なんでも大きいものを良しとしているのか、息子たちの鯉のぼりも人形店で一番大きく高価なものを買いました。
初孫の初節句に、買ってあげるからと人形店へ連れて行かれ、選んだのは義母です。
鯉のぼりの上げ下ろしがあれほど大変なものだと知らずに勧められるがまま、私のカードで購入しました。
結局、その支払いは忘れ去られ、一緒に選べなかった実父母からのお祝いで支払いました。
つくづく、幟はやめてよかったと思います。お店の方が幟はもっともっと大変だと言ってくれて、しぶしぶ諦めた義母でした。
兜飾りは断りました。
自室に飾れば寝るところがなくなる上に義母が自由に出入りしそうです。
実際、鯉のぼりだけでクタクタでした。
吹き流しや鯉のぼりがポールに絡んで二進も三進もいかなくなり、竹竿を持って格闘しました。
雨が降れば慌てておろし、朝の気忙しない時間から催促がかかります。
そんな鯉のぼりもお金を出した実父母はほとんど見ていません。
うちに来ないからです。来ないというより来れないって感じですが。
連休中は私も目が回りそうなくらい忙しかったし、義母の親戚は来ても実家の親が訪問することなど微塵も考えてなかったと思います。
長男の初節句はこの家で義父母と小姑たちでお祝いしました。
もちろん、準備は母親である私が全部!
実家の両親を呼ぶ発想はないようで、不在のままの初節句でした。
私が言えば良かったのですが、両親が来たところできっと肩身の狭い思いをするだろうという思いがあって言い出せませんでした。すでに鯉のぼり代というお祝いをもらっているのに、手ぶらでは来れないでしょうし。
仕出しを取るでもなく、普段着のまま料理を用意し、時間に追われて店と家を往復する姿など見せたくなかったのもあります。
それに、義母は実際にお金を出した両親の前で、一番大きい鯉のぼりを買ってあげたと自慢話をするんではないかと思いました。
別の日に親子水入らずでどこかで食事でもして、ゆっくり初孫と遊んだ方がよほどいいかなと思ったんです。
そんな余裕が訪れる日もなく歳月は流れていきました。
数年後、こどもの日のお祝いをめぐって大バトルが起こりました。

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今の生活に慣れてしまうと、時間に余裕があるようでなかなか思うように過ごせません。
お金の事もそうですが、以前はどうやって時間配分していたのか思い出せないです。慣れってある意味怖いですね。
昨日の続きです。
出産を機に、些細なことで舞い戻って実家でのまったり静養はしなくなった小姑ですが、今度は母親のケータリングが当たり前になってしまいました。
最初は産後にアパートに戻った頃、時々、義母が訪ねては家事を手伝っていたようです。
実際は手伝いなのか、全部やっていたかは知りませんが。
私は里帰り出産を許されず、実家へ行くこともできず、苦しい思い出しかないので、
義母と小姑を見て随分と羨ましく、いいえ、妬み恨み辛みの極みで苦々しく観察していました。
私の両親は孫である私の息子を何度抱っこできたでしょうか。
抱っこどころか、何回会ったでしょうか...
それはもう日参のごとく、毎日毎日、足繁く出かけて行きました。
その頃も今と変わらず、出掛けてばかりの義母でしたのでどこへ行っていたのか知りませんでした。
けれど、ある日、警察から連絡が来たことで小姑の家へ通い詰めていたことがわかったのです。
それは駐車場の位置を勘違いした義母はよそ様の駐車場へ停めていたようで、それが毎日長時間に渡り駐車されて誰の車かもわからず、困って警察へ相談したからです。
本当、バカじゃないの!
これ以来、うちでご飯を作って届けるようになっていくのでした。
よくは知りませんが、最初は晩御飯のおかずだけだったように思います。
それがだんだんエスカレートして、朝昼晩の三食に加え、旦那さんのお弁当まで作るようになりました。お弁当までなんて異常としか言いようがありません!
義母が出掛ける時は玄関からガチャガチャと食器がぶつかる音が聞こえてきました。
いつも玄関に荷物を放りっぱなしの義母なので、コンテナのような大箱に皿が並んで鍋やら、とにかくケータリングさながらの大荷物です。
朝早くから義母の台所からありとあらゆる音が聞こえ、コンテナを運ぶ「よいっしょ」の掛け声がボロキッチンまで響いて、心かき乱されました。
この頃は表面上は仲良くやっていましたから、義母は度々、私にグラタンやポタージュの作り方を聞いてきました。
小姑はグラタンやルーから作るシチューが大好物で誕生日には必ずリクエストがありました。なので義母が代役を務めるべくレシピを聞いてきたのだと思います。
産後半年が経ってもこの有様はひどくなる一方で、マザオが何をどう言っても収まる気配はありませんでした。
この頃です、光熱費が跳ね上がってとんでもない金額の請求書が来るようになったのは。
一家族分の煮炊きをうちでやってるのですから当たり前です。
電気もガスも水道も、どれも二万円以上、合計で六万から七万円の光熱費でした。
火の車の台所事情お構いなしのこれには揉めに揉めた経緯があります。
ですが、食材費ももらってなかったのでしょうか、義母は「お金ない」の一点張りで光熱費をうちへ入れることはありませんでした。
強いて言えば、年金が入るごとに一万円だったので今より五千円多いですかね。
これは、もう一人の小姑がさすがに激怒して、終わりを迎えました。
苦々しい過去の一つです。

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