大きな家のボロキッチン
別居だったはずなのに! ある日突然の「壁紙選んでね」という義母の言葉に呆然、あれよあれよという間に同居のための改装終了。 卯年生まれの私も義母が雑事から解放された年齢になりました。うさぎが茨の道を脱出できる日はいつ?
盛り上がったり、沈んだり、気分の浮き沈みが激しいです。
梅雨の時って気持ちが不安定になりやすいんだとか、どこかで聞いた事があります。
低気圧が関係してるんでしょうか?
あ、低気圧で思い出しました。
結婚したばかりの頃は、義母との関係も良好というか、まだ波風も立っていませんでした。お互い仮面を被っていたのかも。
今もそうなんですけど、私は低血圧です。
そういえば、最近は測ってないけどどうなんだろう。40歳くらいまでは普段から上が80なくて朝目覚めてから動き出すまでがとてもだるかった。
「低血圧だと朝が大変なんだって?」
どこから聞いて来たのか、義母が私の低血圧をしきりに心配してくれた時期もあったんですね。
心配するまでは良かったんですけど、あのババアはあちこちで吹聴しまくってくれたんです。
「うちのお嫁さん、朝から低気圧で大変なの。」
聞いた人は、私が朝から不機嫌で荒れまくってると思ってたみたい・・・
回り回って私の耳に入った時には「すごい嫁」のレッテルがついてました。最悪!
こんな感じで、とにかく言い間違いや思い込みの発言が多い義母。
その場しのぎで適当なことを言うのは日常茶飯事、周りは本当に振り回されます。
中でも許せなかったのが「もっと良い友達いないの?」です。
リーマンショックの影響は、中小ならずも零細、まして小さな商売屋などはとても大変な事態でした。あれから何年?未だにアベノミクスなんて微塵も感じられず、ボーナスなんて論外、毎日が必死で支払いに追われています。
商売屋の嫁となって、自然と商売屋の嫁友が増えました。
業種は違っても、やはり切り盛りの大変さや義父母と一緒に過ごす時間の長さにみんな辟易としています。互いに励まし合う、互いの状況が痛い程分かり合える友達です。
そんな戦友ともいえる友人の家業廃業や破産が、少なからずあったのもあの時代でした。
いつか私たちの時代が来るまで頑張ろうと励まし合った友達も、辛くて一緒に泣いた商売屋の嫁友も、離婚したり遠方へ引っ越したり・・・
辛うじて生き残ったうちの店だって、立っているのが精一杯の厳しい時勢でした。
商売をしているとそういった状況は義母にもわかることでした。
当然、聞いて来るわけです。
「あなたの友達のお店どうしたの?」みたいに。
事実上の倒産であっても、私は「もう辞めるんだって」という風な言い回しで商売を畳むらしいと言ってました。
これを機に、「うちも辞めたい」という私の胸の中にずっと潜んでた気持ちを代弁するかのように、倒産を美化するかのような話しぶりで。
私が経理を担ってからというもの、本当に資金繰りに苦しめられてきました。(今でもですが)
その上、借金は相続で不動産以外の遺産はすべて小姑らにいってしまったのですから、もう限界!というのが正直な気持ちです。
やりたくもない仕事を義家族とずっと繋がったまま、無給無休でこなさなければいけない自分の運命にうんざりしていました。
店の存続にはまったく触れずに義母は言いました。
「まあ・・・あなた、
もっと良い友達いないの?」
なんて言い草!?(激怒)
最低な考えしかないクソババアを切り離したい!

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梅雨の時って気持ちが不安定になりやすいんだとか、どこかで聞いた事があります。
低気圧が関係してるんでしょうか?
あ、低気圧で思い出しました。
結婚したばかりの頃は、義母との関係も良好というか、まだ波風も立っていませんでした。お互い仮面を被っていたのかも。
今もそうなんですけど、私は低血圧です。
そういえば、最近は測ってないけどどうなんだろう。40歳くらいまでは普段から上が80なくて朝目覚めてから動き出すまでがとてもだるかった。
「低血圧だと朝が大変なんだって?」
どこから聞いて来たのか、義母が私の低血圧をしきりに心配してくれた時期もあったんですね。
心配するまでは良かったんですけど、あのババアはあちこちで吹聴しまくってくれたんです。
「うちのお嫁さん、朝から低気圧で大変なの。」
聞いた人は、私が朝から不機嫌で荒れまくってると思ってたみたい・・・
回り回って私の耳に入った時には「すごい嫁」のレッテルがついてました。最悪!
こんな感じで、とにかく言い間違いや思い込みの発言が多い義母。
その場しのぎで適当なことを言うのは日常茶飯事、周りは本当に振り回されます。
中でも許せなかったのが「もっと良い友達いないの?」です。
リーマンショックの影響は、中小ならずも零細、まして小さな商売屋などはとても大変な事態でした。あれから何年?未だにアベノミクスなんて微塵も感じられず、ボーナスなんて論外、毎日が必死で支払いに追われています。
商売屋の嫁となって、自然と商売屋の嫁友が増えました。
業種は違っても、やはり切り盛りの大変さや義父母と一緒に過ごす時間の長さにみんな辟易としています。互いに励まし合う、互いの状況が痛い程分かり合える友達です。
そんな戦友ともいえる友人の家業廃業や破産が、少なからずあったのもあの時代でした。
いつか私たちの時代が来るまで頑張ろうと励まし合った友達も、辛くて一緒に泣いた商売屋の嫁友も、離婚したり遠方へ引っ越したり・・・
辛うじて生き残ったうちの店だって、立っているのが精一杯の厳しい時勢でした。
商売をしているとそういった状況は義母にもわかることでした。
当然、聞いて来るわけです。
「あなたの友達のお店どうしたの?」みたいに。
事実上の倒産であっても、私は「もう辞めるんだって」という風な言い回しで商売を畳むらしいと言ってました。
これを機に、「うちも辞めたい」という私の胸の中にずっと潜んでた気持ちを代弁するかのように、倒産を美化するかのような話しぶりで。
私が経理を担ってからというもの、本当に資金繰りに苦しめられてきました。(今でもですが)
その上、借金は相続で不動産以外の遺産はすべて小姑らにいってしまったのですから、もう限界!というのが正直な気持ちです。
やりたくもない仕事を義家族とずっと繋がったまま、無給無休でこなさなければいけない自分の運命にうんざりしていました。
店の存続にはまったく触れずに義母は言いました。
「まあ・・・あなた、
もっと良い友達いないの?」
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思いつきで物を言い、その場限りの言い訳が常の義母。
そんな義母ですからエピソードは限りなく出て来るわけです。
あれは義父が入院中のことでした。
余命いくばくかという時で、家族の付き添いが必須で個室に入っていました。
マザオもたびたび泊まり込んで付き添ったわけですが、主に付き添ってたのはやっぱり妻である義母でした。
手の掛かる義父ではなかったけれど、やはり精神的に追いつめられたところもあるようで細かい所まで異常に気にしたり指図したりすることがあったようです。
窓から差し込む日差しが気になってよく眠れないと訴えたのもこの頃だったと思います。
もちろんカーテンがありますし、部屋は割と広めで一番奥にベッドがあり窓からの日差しは直接当たらなかったんですけどね。
義母からその話を聞いて、私は自分が持ってる遮光カーテンを思いました。
ボロキッチンを作るべく改装した元寝室だった私たちの部屋。ただのワンルームに一家4人が寝て起きてご飯を食べるのです。
子供が小さい時は部屋の半分が布団です。子供が寝ているので私たち夫婦はテレビも布を掛けて音量を絞って見たりしていました。
そんな様子を知った実母が遮光カーテンを吊るしたら?と購入してくれたのです。
裏地がゴムのような感じでカーテンからは一切の灯りが漏れない重厚な物でした。重宝したその遮光カーテンも時とともに子供達にも部屋が出来て必要なくなりました。
大切にしまってあった実母に買ってもらった遮光カーテン。
このカーテンにはあの頃の思い出がいっぱい沁み込んでる気がしてました。
「なにか良いものないかしら?」
そう言いながら、毛布でも吊るそうか?などと妙案を出す義母。
義父の残されたわずかな時間のことを思って、私は自ら「遮光カーテン使う?」と聞いてみました。
「いいの?」などという確認はなく、即「貸してくれたら助かるわ」と言った義母。
私が言い出すのを待ってた?
よく覚えてたな・・、しまい込んで何年も経ってますから。しかも使っていたのは私たちの部屋ですからね。
正直、病院へそのカーテンを持ち込むのは気が進みませんでした。
クリーニングすればなんてことないし、使ってない物が日の目を見るんだからいいじゃない、そう自分に言い聞かせました。私から言い出したことだしね。
最終的にカーテンは返ってきませんでした。
何度も催促しましたよ。
義母は「返す、返す」と言うばかりでした。
返すっていつ!?
なかなか返さないのも当然でした。病院から持ち帰ってなかったのです。
病院から電話があり発覚したのです。
義母の留守中に電話が鳴り、あまりに呼び出しが長かったのでマザオが電話に出たのでした。
普通なら、自分たちの電話でなければ無視しているうちに留守電になってしまうのですが、この時は不思議なことにマザオが出たんです。
てっきりクリーニング中か、荷物に紛れてるのをまだ片付けられないのかと思っていたので、そのショックはかなりのものでした。
「捨てて来たんじゃないの!?」
義母には言えない私の怒りはマザオに向けられました。
借りたもの返さないってどういう神経してるの!?
泥棒と一緒になんか暮らせない!
罵詈雑言、思いつく限りの悪態をついて抗議しました。
マザオから追求された義母はシレッと言いました。
「大きくて重たいから持って来なかったけど、まだ病院へお礼に行くからその時持って来るつもりだったのよ。」
もう何年も前のことだけど、私は未だに根に持ってます!!
この嘘つきババア!!
早く返しやがれ!!

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そんな義母ですからエピソードは限りなく出て来るわけです。
あれは義父が入院中のことでした。
余命いくばくかという時で、家族の付き添いが必須で個室に入っていました。
マザオもたびたび泊まり込んで付き添ったわけですが、主に付き添ってたのはやっぱり妻である義母でした。
手の掛かる義父ではなかったけれど、やはり精神的に追いつめられたところもあるようで細かい所まで異常に気にしたり指図したりすることがあったようです。
窓から差し込む日差しが気になってよく眠れないと訴えたのもこの頃だったと思います。
もちろんカーテンがありますし、部屋は割と広めで一番奥にベッドがあり窓からの日差しは直接当たらなかったんですけどね。
義母からその話を聞いて、私は自分が持ってる遮光カーテンを思いました。
ボロキッチンを作るべく改装した元寝室だった私たちの部屋。ただのワンルームに一家4人が寝て起きてご飯を食べるのです。
子供が小さい時は部屋の半分が布団です。子供が寝ているので私たち夫婦はテレビも布を掛けて音量を絞って見たりしていました。
そんな様子を知った実母が遮光カーテンを吊るしたら?と購入してくれたのです。
裏地がゴムのような感じでカーテンからは一切の灯りが漏れない重厚な物でした。重宝したその遮光カーテンも時とともに子供達にも部屋が出来て必要なくなりました。
大切にしまってあった実母に買ってもらった遮光カーテン。
このカーテンにはあの頃の思い出がいっぱい沁み込んでる気がしてました。
「なにか良いものないかしら?」
そう言いながら、毛布でも吊るそうか?などと妙案を出す義母。
義父の残されたわずかな時間のことを思って、私は自ら「遮光カーテン使う?」と聞いてみました。
「いいの?」などという確認はなく、即「貸してくれたら助かるわ」と言った義母。
私が言い出すのを待ってた?
よく覚えてたな・・、しまい込んで何年も経ってますから。しかも使っていたのは私たちの部屋ですからね。
正直、病院へそのカーテンを持ち込むのは気が進みませんでした。
クリーニングすればなんてことないし、使ってない物が日の目を見るんだからいいじゃない、そう自分に言い聞かせました。私から言い出したことだしね。
最終的にカーテンは返ってきませんでした。
何度も催促しましたよ。
義母は「返す、返す」と言うばかりでした。
返すっていつ!?
なかなか返さないのも当然でした。病院から持ち帰ってなかったのです。
病院から電話があり発覚したのです。
義母の留守中に電話が鳴り、あまりに呼び出しが長かったのでマザオが電話に出たのでした。
普通なら、自分たちの電話でなければ無視しているうちに留守電になってしまうのですが、この時は不思議なことにマザオが出たんです。
てっきりクリーニング中か、荷物に紛れてるのをまだ片付けられないのかと思っていたので、そのショックはかなりのものでした。
「捨てて来たんじゃないの!?」
義母には言えない私の怒りはマザオに向けられました。
借りたもの返さないってどういう神経してるの!?
泥棒と一緒になんか暮らせない!
罵詈雑言、思いつく限りの悪態をついて抗議しました。
マザオから追求された義母はシレッと言いました。
「大きくて重たいから持って来なかったけど、まだ病院へお礼に行くからその時持って来るつもりだったのよ。」
もう何年も前のことだけど、私は未だに根に持ってます!!
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