大きな家のボロキッチン
別居だったはずなのに! ある日突然の「壁紙選んでね」という義母の言葉に呆然、あれよあれよという間に同居のための改装終了。 卯年生まれの私も義母が雑事から解放された年齢になりました。うさぎが茨の道を脱出できる日はいつ?
目で区画ごとの仕切りを作って一日一区画、草抜きをしてるのですが全然追いつきません。
特に義母の部屋の前は気持ちが向かないこともあって、気がつけば雑草がはびこっているのです。
自分の部屋の前くらい自分でやれ!
声に出せない怒りの文句を吐きながら、それでもやらなければ最後は私自身が大変な目に遭うのですからやるしかありません。
そこの部屋には掃き出し窓があるんですけど、今では開かずの窓です。
雨戸も閉めません。
内障子があるのですがボロボロになって、カーテンに変えました。
それが大雑把というか、だらしないというか...
そこの部屋は義母のリビングの横にある和室です。
リビングと和室の境は全開に出来るようになっていて、引越ししてきた当初はいつも開け放してリビングを広く使っていました。
ボロキッチンのない完全同居でしたから広めの設計だったんです。
それがだんだんと義母の荷物が増え、半分だけ扉を閉めるようになり、ついには完全封鎖でした。
リビングから部屋の中が一切見えないようになったからか、どんどん荷物は増えていき、まるで納戸です。
積み上げてある荷物が崩れ落ちて障子を破り、片付けると言っては部屋に入った義母が手をついて障子をまた破るの繰り返しでボロボロになりました。
いつだったか、換気が出来ないから換気扇をつけたいと言い出して設置したのです。
私の記憶では、
この家を建てる時、義母の希望は頑固でこだわりが強く、そこまで?と思うようなことを散々要求していました。この納戸化した部屋も壁は聚楽、内障子をはめて書院棚まで造ったのでした。
リビングとの境が閉ざされ始めた頃、書院棚に義母の洗濯物を畳んで置いておきました。
ここは洗濯物なんか置く場所じゃない!怒鳴りつけられました。
じゃあ、どこへ置くんだよ!?
この汚い部屋の中で場所を選んだ結果だ!
文句があるなら洗濯くらい自分でやれ!
逆ギレしてやったらどんな顔をしたでしょうね。
あの部屋の前にしゃがみこんで草抜きをしていると、いろんな思いを飲み込んだあの頃を思い出してしまいます。

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出戻り小姑とともに再び大家族の生活に舞い戻った最初の日でした。
夕飯の支度をどうする?と問いかけられました。
出戻りで小さくなるどころか、夕飯の支度まで私にやらせるつもりだったのでしょうか。
この頃、ボロキッチンはあったけれど義母の反対で夕飯までは別に出来ていませんでした。
ボロキッチン完成の日に言われた「夕飯までは別にさせない!」切口上の宣言。
義母が言うには、それまでの私の家事ぶりを見ていたが食事を別々にする資格なしとのことでした。
こんな揉め事もあって、結局、ボロキッチンが出来てからも完全に義家族の食事の支度を切り離すことが出来ませんでした。
唯一の心の拠り所ボロキッチンで夕飯を作り、義母のダイニングへ運んでいました。
夕飯の支度前に義母側から食器を持ち込み、狭いキッチンで食事に支度をし、皿に盛り付けラップをして届ける、そんな生活を何年したかしら。
出戻り小姑は便乗して夕飯にありつこうとしたのでしょうか。
真っ平御免です。
ボロキッチンの効用はやはり大きかったのです。
籠城しても水が出る、子供達の食事に困らない、環境が整ったからこそ少しずつ強くなっていった私。
食事は別々の方がお互い気楽でしょう?
私にとって一世一代の度胸を決めた発言でした。
小姑が出戻ったことで嫌ことは山ほどあったけど、三食別々になったことはとても大きな変化でした。

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